直線上に配置

「007」シリーズ



007/死ぬのは奴らだ
(Live And Let Die)
 
1973年(昭48)7月28日公開/121分/
カラー/シネマスコープ/配給 ユナイテッド・アーティスツ
 
製作 ハリー・サルツマン
アルバート・R・ブロッコリ
脚本 トム・マンキーウィッツ  監督 ガイ・ハミルトン
撮影 デッド・ムーア 音楽 ジョージ・マーティン  美術 スティーブン・ヘンドリック
出演-ロジャー・ムーア、ジェーン・シーモア、ヤフェット・コットー、バーナード・リー、クリフトン・ジェームズ
AmazonPlimeVideo  https://amzn.to/3NokaR4

前作から約1年半後に公開された007シリーズ第8作目。

前作主演のショーン・コネリーは一作のみの契約だったらしく、
再びボンド役は変更となって、今回はイギリス俳優のロジャー・ムーアがボンドを演じている。
監督・脚本・撮影は前作と変わらず。主題歌はポール・マッカートニー。

ロジャー・ムーアはこの時46歳。何とショーン・コネリーより3歳も年上。
一番最初の007の時にもボンド役の候補となったようだがTVドラマの撮影が忙しく断念したらしい。

最初のシーン、自宅に女連れ込んでよろしくやっていると、上司のMと秘書が訪ねてくる。ボンドは慌てて女を隠す。
別にプライベートでシケ込んでいる訳だから慌てる必要は無いだろうと思ってしまう。ショーン・コネリーならスマートにやり過ごしたのではないだろうかと。映画の立ち上がりとしては乗れなかった。ファーストシーンでの印象は大事だ。

その後はいつものようにタロット占いのボンドガールとの恋やら、ケシの花を栽培する悪徳組織を暴いていく。
ハーレムの行進する葬式集団が面白い。ボートでの追跡劇とそれに絡むヤンキー保安官は、いかにもアメリカ的だが少し冗長。
ラストの寝台列車での格闘は、本家返りか。大ラスの、死んだはずの黒人ダンサーが楽屋落ち的に登場するのは今ひとつ。

ロジャー・ムーアの新生007としては及第点の出来上がり。

以下Wikiより転載

-------------------------------------------------------------------------------------
『007/死ぬのは奴らだ』(Live And Let Die)は、
イアン・フレミングの同名小説を原作とした、ガイ・ハミルトン監督の1973年のスパイアクション映画。
映画「ジェームズ・ボンド」シリーズの第8作目。ジェームズ・ボンド役を、3代目のロジャー・ムーアが最初に演じた作品である。

前作『007/ダイヤモンドは永遠に』で一度限りの復帰となったショーン・コネリーの後継者として、新しいジェームズ・ボンド役に指名されたのがロジャー・ムーアである。ムーアはこのオファーを受けるのは初めてではなく、シリーズ第1作『ドクター・ノオ』を製作する際にも指名されたが、当時はテレビ番組で忙しく断っていた。それから10年後、ようやく46歳でボンド役を射止めた(実はムーアはショーン・コネリーよりも3歳年上である)。彼が演じるボンドはコネリー時代のハードな部分が削られ、軽妙でユーモラスな007となった。コネリーのボンドもジョークをよく発したが、ムーアはジョークをさらに増やした。

ボンドガール
イギリスの首都ロンドン生まれの女性、ジェーン・シーモアがボンドガールに選ばれた。
シーモアは後に、IGNエンタテイメントの「トップ10ボンド・ベイブズで10位」にも選ばれている。
1973年、シーモアはこの映画でボンドガール ソリティアとしての役割を果たし、国際的な知名度を得た。

主題歌
ポール・マッカートニー&ウイングスが起用され、同タイトル曲を担当した。
イギリスの「ミュージック・ウィーク」誌では、最高位9位、アメリカの「ビルボード」誌では、最高位2位を獲得し、映画と共に大ヒットとなった。007の主題歌が英米両方のチャートでトップ10入りしたのは、この曲が初めてだった。また、映画のサウンドトラックは、プロデューサーのジョージ・マーティンが担当し、ビートルズ時代以来の共演となった。同サウンドトラック・アルバムは、「ビルボード」誌アルバム・チャートでは、最高位17位だった。

興行成績
1973年の映画の世界興行成績で第3位。
日本では、1973年度の外国映画配給収入の第2位。

--------------------------------------------------------------------------

サー・ロジャー・ジョージ・ムーア(Sir Roger George Moore KBE 、1927年10月14日 - 2017年5月23日)は、イギリス出身の俳優。
1973年から1985年の間に、映画『007』シリーズで、7作にわたってジェームズ・ボンドを演じた。

人物
ロンドンのストックウェルで警察官の息子として生まれる。1940年代に映画にエキストラ出演した後に軍隊に入隊し、第二次世界大戦中はイギリス軍の娯楽部隊に所属した。

除隊後に再び大部屋俳優になり、モデルやテレビのステージ・マネージャーなどの職業も経験した。1950年代に入ってアメリカに渡り、テレビドラマに出演する下積み生活が続いた。1954年、MGM映画『雨の朝巴里に死す』に出演、同年MGMの契約俳優となる。

1962年、テレビシリーズ『セイント 天国野郎』に主演してスターの地位を得る。1971年からの『ダンディ2 華麗な冒険』などのテレビシリーズでも活躍した。英国文学界が生んだ世界的二大キャラクター、シャーロック・ホームズとジェームズ・ボンドを演じた唯一の俳優である。

1973年には、ショーン・コネリーの後継者として『007 死ぬのは奴らだ』に主演した。以後、『黄金銃を持つ男』『私を愛したスパイ』『ムーンレイカー』『ユア・アイズ・オンリー』ほか、007シリーズ作品で1985年までジェームズ・ボンドを演じた。

俳優として活躍する一方、ユニセフ親善大使(オードリー・ヘプバーンに勧められたという)などボランティア活動にも精力的で、2003年にはナイトの称号を与えられた。同年にはブロードウェイの舞台で倒れ、病院に搬送される騒ぎもあった。

2007年にはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに星を獲得した。式典には007の宿敵ジョーズを演じたリチャード・キールや、『007 死ぬのは奴らだ』で共演したデヴィッド・ヘディスン、女優ステファニー・パワーズらが出席したが、ムーアが星の前でひざまずいた後、立ち上がるのに人手を借りねばならない一幕もあった。2008年には初めての自伝 "My Word Is My Bond" を上梓、また仏芸術文化勲章の最高章であるコマンドゥールを授与された。

私生活では、4度の結婚をしている。2人目の妻である歌手のドロシー・スクワイアーとは1961年に破局したが、彼女がその後8年間離婚を拒んだため、ムーアと後述するルイザ・マッティオリとの間の子供のうち2人は、庶出子となった。ドロシーは1998年に死去したが、2009年になってムーアはドロシーが子供の頃住んでいた家に300ポンドのブルー・プラークを贈った。

2017年10月14日に生誕90周年を迎える予定だったが、それに先立つ5月23日、がんにより89歳で死去。ムーアの家族が公式Twitterで掲載した声明では、ムーアはスイスで亡くなり、葬儀は故人の遺志によりモナコで密葬にて執り行われるという。

三代目ジェームス・ボンド
1973年に『007 ダイヤモンドは永遠に』で1作のみの限定復帰をしたショーン・コネリーの後を受け、3代目ジェームズ・ボンド役に抜擢され世界的に有名になった。2代目のジョージ・レーゼンビーが大幅若返りであったのに対し、コネリーよりも3歳年長の後任者であったが、キネマ旬報社の『世界映画作品・記録全集1975年版』には、「同世代ながら、より体のキレがいいムーアを起用」と紹介されている。エレガントかつユーモラスなキャラクターが、ファンは勿論、スタッフや共演者にも愛され、1985年の『007 美しき獲物たち』まで足掛け13年、シリーズ7作品に連続で主演した(2017年現在までの、6人のボンド俳優の中で最多の出演本数)。

絶対に覆すことが出来ないと思われた、「007ジェームズ・ボンド=ショーン・コネリー」の先入観を変更させることに苦労した。タフでワイルドなコネリーと正反対の路線を目指したため、しばしば原作のイメージを逸脱し、「ムーアのボンド」を追求した。「コネリーとムーア」は、ボンド俳優の二大巨頭であり、後任の俳優たちは、なかなかこのイメージを上回ることができなかった。5代目のピアース・ブロスナンも「(前任者4人の内)ショーンとロジャーは意識しないわけにはいかなかった」と語っている。

歴代最初の黒髪ではない(栗毛色)ボンドである。また、クイーンズイングリッシュを喋るボンドも彼が初めてである。

ボンド役については、原作者イアン・フレミングがムーアを推薦しており、ムーアが『セイント 天国野郎』で活躍していた頃、ショーン・コネリー降板後の2代目ボンド俳優に決定していたが、撮影が延期になり、『セイント 天国野郎』との兼ね合いでスケジュール調整がつかず、その時点ではジョージ・レーゼンビーが2代目ボンドに抜擢された。レーゼンビーの降板後、後任として、1971年に再びムーアにボンド役の誘いがあったが、今度は『ダンディ2』の撮影が決まってしまい、出演できず、3代目はアメリカ人俳優のジョン・ギャビンに決まる。しかし、ギャビンの起用に疑問を抱いたユナイテッド・アーティスツのデヴィッド・ピッカー社長がコネリーの再登板を要求、コネリー側の条件を全面的に承諾することで一本限りの初代ボンドの復活となった。ギャビンの3代目は幻となる。
1973年、結局、『ダンディ2』は人気を得られず終了、スケジュールの空いたところに一作目から数えて実に4度目のオファーで3代目のムーア・ボンドの誕生となった。2代目のレーゼンビー同様、コネリーの後任である。ムーア自身はフレミングとは面識がなく、彼の推薦という話は配役を正当化させるためのイーオン・プロダクションズの宣伝ではないかと推察している。

3代目襲名以前の1964年にイギリスのTVショーのミニコントでボンドに扮しており、ムーアが初代ボンドの候補であったこと、待望論があったことを証明している。コネリーとの差別化を図るため、ドライ・マティーニを注文しない、タバコではなく、(本人の好みである)葉巻を嗜むなどの工夫をしている。ボンドを演じる際、コネリーの真似をしないよう気をつけていたが、特徴的なコネリーの声真似は得意である。また、歴代ボンドで唯一アストンマーティンに乗っていない。

歴代ボンド全員と交流がある(デヴィッド・ニーヴン、ピーター・セラーズも含む)。特にショーン・コネリーとは英国出身の同年代の渡米組ということもあり、「無名時代からの友人」で、お互い有名キャラクターを演じるために1962年に帰国したことなどもあり、「親交が深い」。

ムーアはシリーズのプロデューサーである、アルバート・R・ブロッコリとハリー・サルツマンとの関係が絶望的に悪化しているコネリーとは対照的に非常に良好なため、シリーズの特番のインタビューは勿論、パーソナリティや時にはボンドに扮して登場することもある。

ブロッコリ、サルツマン、コネリーたちと親交が深いが、彼らがそれぞれ仲が良くないことも熟知しており、この点に関して腐心した。コネリーがまだボンドだった時代に3人のテーブルに同席したことがあり、気が気でなかったという。コネリーに次いで"サー"の称号が与えられたボンド俳優である。

1983年6月、シリーズ13作「オクトパシー」公開に先駆けて来日した際、「笑っていいとも!」にボンドガールのモード・アダムスと出演。終始ジョーク連発して会場内を爆笑させた。コーナー終了時にはタモリと一緒に「友達の輪」を披露。「ワキガ止めスプレーを使ってるから大丈夫」などと、会場を爆笑させていた。

「007」シリーズ以外にも数々のアクション映画に主演したムーアだが、意外にも自他共に認める運動音痴だという(唯一得意だった競技は水泳)。
彼が演じた007はシリーズ中でもかなり派手なアクションを取り入れた作品が多い傾向があったが、スタント・パーソンによる撮影を多用したとの評もある。特に彼の最後のボンド作品となった『007 美しき獲物たち』ではすでに50代後半であり(これは2017年現在、同シリーズ最年長記録である)、ほとんどのアクションシーンではスタント・パーソンを使っている(また、同作ではかなり顔の皺が目立っている)。

ムーアが『美しき獲物たち』を最後にボンド役を降りた理由は、冗談めかしに「これ以上やったら殺される」ということであった。しかし、実際に撮影に参加した多くのスタントマンたちによれば、ムーアは世間が思っているほどスタントに消極的ではなく、むしろ、ティモシー・ダルトンの方がスタント・パーソンに任せきりだったと語っているともいう。
ムーア自身はスタント・パーソンに頼ってばかりいることを揶揄した記者の質問に対して、冗談めかして「ラブシーンは全部スタントマンが演じている」と嘯いてもいる。実際、ラブシーンのほうが代役に任せたいほど苦手だったという説もある。
また、こういった「ムーア一流のユーモア溢れる受け答え」を記者はむしろ、好意をもって対応したことからも、ムーアの人柄が滲み出ている。
また、「アクション映画は楽だ。覚えるセリフは少ないし、危険なシーンは代役がいる」と普通の俳優が言ったら問題視される発言も、「多くの人を笑いに包み込む」ことが出来るパーソナリティの持ち主だった。



TOP

弊社の配信するコンテンツ・動画等の整合性・信頼性に関しては万全を期しておりますが、
それにより生じた損害に対しては一切 の保証を負いかねます。
弊社が提供するコンテンツを無断で複製すると、著作権侵害となります。
Copyright (C) 2021, zeicompany. All rights reserved.
Free to Link
直線上に配置