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アルフレッド・ヒッチコックの映画



ナンバーセブンティーン
(Number Seventeen)
 
1932年(昭和7)公開/61分
モノクロスタンダード・トーキー/イギリス映画
 
製作 レオン・M・ライオン 脚本 アルフレッド・ヒッチコック
アルマ・レヴィル
ロドニー・アックランド
 監督 アルフレッド・ヒッチコック
撮影 ジャック・E・コックス 編集 A・C・ハモンド
 音楽 アドルフ・ホーリす
出演-レオン・M・ライオン、アン・グレイ、ジョン・スチュアート
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1932年7月18日にイギリスで公開された日本未公開の作品。
ヒッチコックは1932年はこの作品一本しか公開作がないようだ。

ファーストシーンは街頭の横移動ショットから始まり、そのままカメラは前進移動する。
つまりカメラは直角移動する凝ったんっととなっている。

しかし物語は退屈だ。舞台劇が原作らしく、夜の廃屋を舞台に次々に人間が登場、
二転三転して人物がごっちゃになって訳わからなくなる。

室内で二人の男が格闘するシーン。未だ殴る時の擬音もなく、ヘンに生々しい迫力がある。
さらに後半は、多分原作にはない、蒸気機関車が走る中での追っかけが中心となる。
セットと実際の走る汽車内で撮ったカットが、絶妙にモンタージュされてさすがのヒッチコックと唸らせる。

さらにミニチュア撮影での走る機関車と並走する自動車の追っかけも加わって見応え十分。
モノクロ画面なので十種とミニチュアの繋ぎも粗が見えない。最後の、港に突っ込むシーンの特撮も素晴らしい出来だ。

1932年の日本映画は、小津の「生れてはみたけれど」、伊藤大輔「お誂次郎吉格子」などが公開された年。
まだまだ無声映画の全盛期だった。

そんな時代にヒッチコックはイギリスでこれだけの映画をとっていた事に、
改めてイギリス映画の技術水準、文化的なレベルの高さに驚くばかりだ。

以下Wikiより転載
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戦間期のキャリア:1919年 - 1939年

ゴーモン・ブリティッシュ

『リッチ・アンド・ストレンジ』『第十七番(ナンバーセブンティーン)』の立て続けの失敗で不調となっていたヒッチコックは、BIPを去ったあとの1933年にロンドン・フィルムのアレクサンダー・コルダと短期契約を結び、『ジャングルの上を飛ぶ翼』の監督を予定したが、資金を調達することができず、契約ごと解消となった。その次に独立系プロデューサーのトム・アーノルドと契約を結び、ヨハン・シュトラウス2世が主人公の音楽映画『ウィンナー・ワルツ』を撮影したが、この企画ははじめから絶望的で、ヒッチコックは撮影中に創作意欲がわかなくなった。後年にヒッチコックは「とてもわたしの作品だなんておおっぴらに言えた代物じゃない」と述べ、この時期を「最低の時代」と呼んだ。作品は1934年2月に公開されると、完全な失敗作と見なされた。

この作品の撮影中、マイケル・バルコンがヒッチコックのもとを訪れ、ヒッチコックがBIP時代にチャールズ・ベネットと共同執筆した脚本を映画化する提案をした。ヒッチコックはこれを再起のチャンスと考え、1934年にバルコンが製作担当重役を務めていたゴーモン・ブリティッシュと5本の映画を作る契約を結び、ロンドン西部のシェパーズ・ブッシュにあるライム・グローブ・スタジオに移っ。映画化を決めた脚本は、同社第1作として『暗殺者の家』の題名で監督することになり、同年4月から5月にかけてベネットらとシナリオを作成し、5月から8月の間に撮影した。この作品でヒッチコックは自身が得意とするサスペンスのジャンルへ復帰し、サスペンスとユーモアの組み合わせという以後のヒッチコック作品の基本となるスタイルで、ある夫婦が大使を暗殺する計画に巻き込まれる物語を描いた。12月に公開されると大ヒットし、批評家からも賞賛され、『デイリー・エクスプレス』誌は「ヒッチコックは再びイギリスの監督の中でナンバーワンの座に躍り出た」と書いている。

この作品で名声を取り戻したヒッチコックは、作品の成功のおかげで自由に主題を選ぶことができるようになり、そこで自身が好きな作家だったジョン・バカンのスパイ小説『三十九階段』に基づく『三十九夜』を企画した。ヒッチコックはベネットらと原作に自由に改変して脚本を作り、1935年初めに撮影した。この作品も殺人に巻き込まれた男(ロバート・ドーナット)が、スパイや警察に追われながら自分の無実を証明するという物語を、前作と同様にユーモアとサスペンスを組み合わせながら速いテンポで描いた。同年6月にイギリスで公開されると前作同様に高い成功を収め、アメリカでもヒッチコック作品で過去最高のヒット作となった。

その次にヒッチコックは、サマセット・モームの短編小説集『アシェンデン』とそのいくつかのエピソードをもとにした戯曲が下敷きのスパイ映画『間諜最後の日』(1936年5月公開)を監督した。この作品は第一次世界大戦中にドイツのスパイを殺害する任務を受けたイギリスのスパイスパイ(ジョン・ギールグッド)を主人公にした物語であるが、前2作のような成功を収めることはできなかった。同作完成後の1936年1月、ヒッチコックはベネットらとスイスでジョゼフ・コンラッドの小説『密偵』が原作の『サボタージュ』の脚本を執筆し、同年春に製作を開始した。これは妻(シルヴィア・シドニー)に内緒で破壊活動をするアナーキスト(オスカー・ホモルカ)を描いた作品で、同年に公開されると『バラエティ』誌に「監督の巧みで熟練した技が、職人的な手法で作られた巧妙なこの作品のあちこちで光っている」と評された。

ゲインズボロ・ピクチャーズへ復帰

『サボタージュ』の完成後、ゴーモン・ブリティッシュは財政的問題で製作部門を閉鎖し、今後は単なる配給会社になることを発表した。それによりヒッチコックは、同社の子会社になっていた古巣のゲインズボロ・ピクチャーズと2本の映画を撮る契約を結んだ。その1本目はジョセフィン・テイの小説『ロウソクのために一シリングを』が原作の『第3逃亡者』(1937年11月公開)で、1937年3月までにベネットらと脚本に取り組み、5月に撮影を終えた。この作品は殺人犯と疑われて警察に追われる無実の男の運命を描く犯罪スリラーで、『ニューヨーク・タイムズ』紙には「静かな魅力を備えた映画」と評された。

同年8月には家族と休暇のためアメリカへ旅行に出たが、関係者はこの旅行でアメリカの会社と契約を結ぶべきかどうか下見をするつもりだろうと推測した。実際にヒッチコックはイギリスの映画産業の技術的制約や、自身が過小評価されていることを強く感じていた。そしてアメリカ旅行中、ハリウッドの独立系映画会社セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズを率いる映画プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックはヒッチコックに興味を示し、助手にヒッチコックと会うように指示した。9月に帰国する時には、ヒッチコックはセルズニックのほか、RKOやMGMなどの大手映画会社と契約交渉を進めていた。

10月、ヒッチコックはゲインズボロ・ピクチャーズでの監督2本目として、会社内で企画倒れになっていたエセル・リナ・ホワイトの小説『車輪は回る』が原作の脚本『バルカン超特急』を取り上げた。この作品は列車内で忽然と姿を消した老婦人(メイ・ウィッティ)を捜索するイギリス人女性(マーガレット・ロックウッド)が主人公のサスペンスである。撮影は12月まで行われ、翌1938年10月に公開されると高い成功を収めた。イギリスやアメリカの批評家にも賞賛され、『ヘラルド・トリビューン』紙には「『バルカン超特急』は、セザンヌのキャンバスやストラヴィンスキーの楽譜と同様に、監督一流の想像力と技量の産物だ」と評され、『ニューヨーク・タイムズ』にはその年のベスト・ワンの作品と呼ばれた。また、ヒッチコックはこの作品で第4回ニューヨーク映画批評家協会賞の監督賞を受賞した。

この作品に取り組んでいる間も、ヒッチコックはセルズニックとの交渉は続けられた。1938年6月にヒッチコックは契約をまとめるため再びアメリカを訪れ、7月14日にセルズニックとの契約書に署名した。契約では年に1本ずつ、計4本の映画を撮り、1本あたり5万ドルのギャラを受け取ることになっていた。契約が履行されるのは1939年4月からで、ヒッチコックはアメリカへ出発するまでの間、チャールズ・ロートンとエーリッヒ・ポマーが設立した映画製作会社メイフラワー・プロダクションズのために、ダフニ・デュ・モーリエの海賊冒険小説が原作のコスチューム・プレイ『巌窟の野獣』を監督した。撮影は1938年秋に行われたが、ヒッチコックは途中で作品への興味を失い、主演のロートンが自分の演技のために撮影を何度も中断するのに苛立った。1939年に公開されると興行的に成功はしたものの、批評家には酷評され、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』誌には「この映画は妙に退屈で面白くない…型にはまった、気の抜けたメロドラマである」と批判された。





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