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アルフレッド・ヒッチコックの映画



マンクスマン
(THE MANXMAN)
 
1929年(大正18)公開/83分
モノクロスタンダード無声/イギリス映画
 
製作 - 脚本 エリオット・スタナード
 監督 アルフレッド・ヒッチコック
撮影 - 編集 -
 美術 -
出演-カール・ブリッスン、マルコム・キーン、アニー・オンドラ、ランドラ・アイルトン、クレア・グリート
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1929年に公開されたアルフレッド・ヒッチコック監督30歳の時の、最後のサイレント映画。

タイトルは「マン島の住民」という意味。
島に住む漁師と弁護士の友人二人と、酒場の娘との三角関係を描く不倫映画。

男女が逢引する海岸のシーンで、逆光を取り入れたハッとするカットがあるが、
セットも照明もフツーのサイレント映画で、ヒッチコックらしさはあまり無い。
後半のストーリーは、不倫がいつバレるかが中心になるので、その意味でのサスペンスはあるが・・・。

英国作家サー・ホール・ケインの原作を忠実に映画化したものらしく、
監督自身もトリュフォとの対談で「原作に縛られヒッチコック映画とは言えない」と語るのみ。

以下Wikiより転載
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幼少期と教育

1899年8月13日、アルフレッド・ジョゼフ・ヒッチコックはイースト・ロンドン(当時はエセックスの一部)の郊外、レイトンストーンのハイ・ロード517番地に、鶏肉店と青果物の卸売商を営む父のウィリアム・エドガー・ヒッチコックと、母のエマ・ジェーン・ヒッチコック(旧姓はホイーラン)の3人の子供の末っ子として生まれた。兄姉は9歳上のウィリアム・ダニエル・ヒッチコックと、7歳上のエレン・キャスリーン・ヒッチコック(愛称はネリー)である。一家は英国国教会の信者が多数を占めるイングランドでは少数派である、アイルランド系のローマ・カトリック教徒だった。
ヒッチコックの生まれた場所である517番地にはそれを記念した『鳥』(1963年)の壁画が描かれている。

幼少期のヒッチコックは内向的でおとなしく、遊び友達もおらず、いつも自分で面白いことを考え出してはひとりで遊んでいた。その遊びというのは地図や時刻表を研究したり、旅行案内書を読んだり、ロンドン市内を散歩したりするというものだった。8歳になるまでにはロンドンを走る馬車鉄道の全線を制覇し、さらにイギリスのほとんどの鉄道路線の時刻表を暗唱してみせて家族を驚かせた。家の壁には巨大な海図を貼り、そこに航行中のイギリス商船の日ごとの位置をつけていた。

ヒッチコックは父に「けがれなき小羊くん」と呼ばれるほど行儀が良かったが、生活全体に規律と秩序を求める人物だった父から厳しいしつけを受けた。後年にヒッチコックがマスコミや知人に好んで繰り返し話したエピソードに、5歳か6歳ぐらいの時に父のしつけで警察署の留置場に入れられたという話がある。ヒッチコックは父から手紙を持たされ、近くの警察署まで行くように命じられたが、手紙を読んだ警察官に「わるい子にはこうするんだよ」と言われ、数分間だけ留置場に閉じ込められた。ヒッチコックはこの経験がきっかけで、生涯にわたって警察や監獄に恐怖心を抱くようになり、それは自身の作品のモチーフとなって現れた。

ヒッチコックが6歳の時、一家はロンドン東部のライムハウスに引っ越した。父はサーモンレーンの130番地と175番地の2店舗を買い取り、それぞれフィッシュアンドチップス店と魚屋として経営を始め、一家はフィッシュアンドチップス店の上階で暮らした。7歳の時には、イースト・エンドのポプラーにあるハウラ・ハウス修道院に通い、そこで約2年間の学業を修めた。伝記作家のパトリック・マクギリガンによると、その後ヒッチコックはローマ・カトリックの機関であるイエスの忠実な仲間が運営する修道院学校に何回か通った可能性があるという。9歳の時には、ロンドン南部のバタシーにあるサレジオ会が運営する寄宿学校に短期間だけ入学した。

1910年、一家は再び転居してステップニーに移った。11歳になったヒッチコックは同年10月5日、スタンフォード・ヒルにあるイエズス会のグラマースクールの聖イグナチウス・カレッジの昼間部に入学した。この学校は厳格な規律で知られ、1日の終わりに教師たちが硬いゴム製の鞭を使って生徒に体罰を与えていた。そのため生徒は教師に罰を宣告されると、1日が終わるまでそれを受けるという恐怖を覚えながら過ごさなければならなかった。後年にヒッチコックは、こうした経験によって自分の中に「恐怖という感情が育まれた」と述べている。その一方で規則や教師や級友に反抗し、司祭館の庭にあった鶏小屋から卵を盗んで宿舎の窓にぶつけ、怒った神父たちには知らないふりをした。そのためヒッチコックは周りから「コッキー(生意気の意)」というあだ名で呼ばれた。勉強面では優秀な生徒であり、入学1年目の終わりにはラテン語、英語、フランス語および宗教教育の成績優秀者として賞を受けた。ヒッチコック自身は「だいたいクラスで4番か5番の成績だった」と述べている。

電信ケーブル社勤務
1913年7月25日、ヒッチコックは13歳で聖イグナチウス・カレッジを修了し、正規の教育にピリオドを打った。ヒッチコックは両親にエンジニアになりたいと言い、ポプラーにある海洋技術専門学校の夜間コースに入学し、力学や電子工学、音響学、航海術などを学んだ。翌1914年11月(1915年初めの説もある)にはロンドンのW・T・ヘンリー電信ケーブル社に、敷設予定の電気ケーブルの太さやボルト数を測定する営業部門のテクニカルアドバイザーとして就職し、週15シリングの給料を得た。その1か月後の12月12日、父親のウィリアム・エドガーが持病の肺気腫と腎臓病のため52歳で亡くなり、兄のウィリアム・ダニエルが父の経営した店を引き継いだ。

そのうちヒッチコックは、エンジニアの仕事が面白くないと感じるようになり、1915年には仕事をしながらロンドン大学のゴールドスミス・カレッジの美術学科の夜間コースに通い、イラストの勉強をした。次第にヒッチコックの関心は芸術の方に移り、とくに映画や演劇を盛んに見るようになり、映画技術専門紙や映画業界紙を愛読した。当時のヒッチコックはイギリス映画よりもアメリカ映画の方が好きで、D・W・グリフィス監督の『國民の創生』(1915年)と『イントレランス』(1916年)に強い感銘を受けたほか、チャールズ・チャップリンやバスター・キートン、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォードなどの作品を好んで見ていた。

ヒッチコックがエンジニアとして働いていた間に第一次世界大戦が起きていたが、開戦した当初にヒッチコックは若過ぎるという理由で軍隊に入ることができず、1917年に適正年齢に達した時には「兵役に適さない」としてC3分類(「深刻な器質的疾患がなく、居住地の駐屯地での使用条件に耐えられるが、座っての仕事にのみ適している」)を受けた。そのためヒッチコックは王立工兵連隊の士官候補生となり、会社で働きながら週末に訓練や演習に参加した。伝記作家のジョン・ラッセル・テイラーによると、ハイド・パークでの実践的な演習の1つとして、巻脚絆を着用する訓練があったが、ヒッチコックは脚絆を足に巻き付けることができず、何回やっても足首にずり落ちたという。一部の伝記作家は、戦争の残虐行為が神経質なヒッチコックにトラウマ的な経験を与えたと述べている。

その後、ヒッチコックはイラストを学んでいたおかげで、ヘンリー電信ケーブル社の広告部門に転属し、会社の広告パンフレットのイラストを描く仕事をした。後年にヒッチコックは、この仕事が「映画に近づくためのステップになった」と述べている。1919年6月には、会社の従業員に6ペンスで販売された社内誌『ヘンリー・テレグラフ』の創刊編集者となり、いくつかの短編小説を寄稿した。創刊号に寄稿した最初の短編小説『Gas』は、若い女性がパリで男性の暴漢に襲われるが、それは彼女が歯医者での治療中に見た幻想だったという物語で、伝記作家のドナルド・スポトーはこの作品から「若きヒッチコックが、読者をあやつる技法と恐怖をかもしだす術を本能的に心得ていた」と述べている。しかし、時間が経つにつれ、ヒッチコックは広告デザインの仕事に飽き始め、週15シリングの給料にも満足しなくなった。




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