直線上に配置
バナー
高倉健の映画

【高倉健】本名・小田剛一。

不器用で寡黙。半世紀を超える俳優人生で、一本気な「日本の男」を演じた。
1956年に25歳でデビュー後、任侠映画の看板スターとなり、数々の映画に主演。

代表作に「網走番外地」シリーズ、「昭和残侠伝」シリーズ、「八甲田山」、「幸福の黄色いハンカチ」、「駅 STATION」、「ブラック・レイン」、「鉄道員」、など。
2013年に文化勲章。ほかに日本アカデミー賞最優秀主演男優賞、菊池寛賞などを受賞。

2014年11月10日午前3時49分、悪性リンパ腫のため都内の病院で死去。

享年83。

11/28 更新


 ★ 駄作  途中でやめたくなる
 ★★  凡作  興味あれば
 ★★★  普通  それなりの出来
 ★★★★  佳作  かなり面白い
 ★★★★★  傑作  超オススメ

「拝啓 渥美清 様」
<俳優渥美清の映画に関しての個人的考察サイト>


「勝新と雷蔵」
<勝新太郎と市川雷蔵映画に関しての個人的考察サイト>


日本特撮史
<円谷英二の軌跡と日本の特撮史の考察サイト>

1931年
(昭和6年)
0歳
1931年2月16日、福岡県中間市の裕福な一家に生まれる。
父は旧日本海軍の軍人で、炭鉱夫の取りまとめ役などをしていた。母は教員だった。

幼少期の高倉は、肺を病み、虚弱だった。
終戦を迎えた中学生の時、アメリカ文化に触れ、中でもボクシングと英語に興味を持った。学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込み、戦績は6勝1敗だった。
英語は小倉の米軍司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行く中で覚え、高校時代にはESS部を創設して英語力に磨きをかけた。
旧制東筑中学、福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して明治大学商学部商学科へ進学。
在学中は相撲部のマネージャーを1年間務めている。

1955年
(昭和30年)
24歳
1955年、大学時代の知人のつてで、
当時、美空ひばりが所属していた新芸プロのマネージャーになるため喫茶店で面接を受ける。
そこに居合わせた東映東京撮影所の所長で映画プロデューサー・マキノ光雄にスカウトされ、東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社。

マキノ雅弘は「高倉は山本麟一と同じ、高倉の明大の先輩で東映のプロデューサーだった光川仁朗の口利きで東映入りした」と話している。同期には今井健二・丘さとみ・岡田敏子・五味龍太郎らがいた。

高倉は東映に入社してしばらくの間、東日貿易の社長・久保正雄の家に居候した。高倉にとって久保は親代わりともいうべき人で、長嶋茂雄らとの付き合いも久保を通じてのもの。長嶋の長男である一茂の名付け親とされる。
久保はインドネシアの戦後補償を巡り、伊藤忠商事の瀬島龍三とタッグを組み、デヴィ・スカルノを使って、池田勇人首相とスカルノインドネシア大統領を繋いだ政商。
1956年
(昭和31年)
25歳
ニューフェイスは映画デビューまでに俳優座演技研究所で6か月の基礎レッスン、
さらに東映の撮影所でエキストラ出演など6か月の修行を経験することが決められていたが、俳優座研究所では「他の人の邪魔になるから見学していてください」と云われる落ちこぼれだったという。

しかし採用から1か月半で主役デビューが決定、その際にマキノの知人から「高倉健」と芸名をつけられる。
本人はシナリオに書かれてあった主人公の役名「忍勇作」が気に入り、「これを芸名に」と希望したが却下され、嫌々ながらの芸名デビューともなった。

演技経験も皆無で、親族に有名人や映画関係者がいるわけでもない無名の新人だったが、翌1956年の映画『電光空手打ち』で主役デビュー。元々俳優を目指していた訳ではなかったことから、初めて顔にドーランを塗り、化粧をした自分を鏡で見た時、情けなくて涙が止まらなかったという。
1961年
(昭和36年)
29歳


アクション・喜劇・刑事・青春もの・戦争・文芸作品・ミステリなど、幅広く現代劇映画に主演・助演して、東映の期待は大きかったが、その後の作品はどれも当たらなかった。

片岡千恵蔵・中村錦之助・美空ひばりの映画などにも助演していた。当時の東映の看板スターである美空の主演シリーズ『べらんめえ芸者』の2作目から出演するが、芝居の硬さが目立ち、見え隠れする暗い陰や低音の声もあいまって、派手さや洗練さに欠ける地味で暗い雰囲気が漂った。粋さが求められるひばりの相手役には違和感があり、ひばりも高倉と組まされ続けることに納得していなかったが。日活出身の井上梅次が監督した『暗黒街最後の日』などの、ギャング映画にも出演しだした。

解説 「殴り込み艦隊」★★
(1960年10月30日・東映・モノクロ・97分)

監督:島津昇一/脚本-北村勉/共演-田崎潤・久保菜穂子
主演-高倉健
解説 「べらんめい芸者」★★★
(1961年8月5日・東映・モノクロ・97分)

監督:木村荘十二/脚本/主演-美空ひばり
助演-高倉健
解説 「悪魔の手毬唄」★★★
(1961年11月15日・ニュー東映・モノクロ・97分)

監督:渡辺邦男/原作-横溝正史/共演-北原しげみ
主演-高倉健
解説 「南太平洋波高し」★★
(1962年1月9日・ニュー東映・モノクロ・94分)

監督:渡辺邦男/脚本-柳田吾郎/共演-鶴田浩二・梅宮辰夫・三田佳子
助演-高倉健
解説 「宮本武蔵」五部作
(1961年-1965年)

監督:内田吐夢/脚本-鈴木尚之/主演-中村錦之助・入江若葉
助演-高倉健
解説 「人生劇場 飛車角」★★
(1963年3月16日・東映東京・総天然色・95分)

監督:沢島忠/脚本-直井欽哉(鈴木尚之)/主演-鶴田浩二・佐久間良子・月形龍之介
助演-高倉健
1963年
(昭和38年)
31歳


1963年の『人生劇場 飛車角』で、高倉は準主役で出演。高倉は本作で任侠映画スターとしての足掛かりをつかむが、1964年の『日本侠客伝』では降板した中村錦之助に代わり、高倉は主役となる。高倉の寡黙な立ち姿と目力が東映任侠路線でその威力を発揮した。スターであることを宿命づけられた高倉は以降、無口で禁欲的で任侠道を貫く男という像を壊さぬよう真の映画スターとしての生き方を貫いた。自らを厳しく律して酒を飲まず、筋力トレーニングを続けていた。

これ以降、仁侠映画を中心に活躍[33][34][35]。耐えに耐えた末、最後は自ら死地に赴くやくざ役を好演し、ストイックなイメージを確立した。

解説 「ジャコ万と鉄」★★
(1964年2月8日・東映東京・モノクロ・99分)

監督:深作欣二/脚本-黒澤明・谷口千吉/主演-丹波哲郎・山形勲・江原真二郎
主演-高倉健
- これ以降、仁侠映画を中心に活躍。耐えに耐えた末、最後は自ら死地に赴くやくざ役を好演し、ストイックなイメージを確立した[36]。1964年から始まる『日本侠客伝シリーズ』、1965年から始まる『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝シリーズ』などに主演し東映の看板スターとなる。

『網走番外地』シリーズの主題歌(同タイトル)は、のちに歌詞の一部が反社会的であるとの理由で一時は放送禁止歌になったが公称200万枚を売り上げ、1966年には『昭和残侠伝』シリーズの主題歌『唐獅子牡丹』も大ヒットし、今も、カラオケなどで歌い継がれている。

70年安保をめぐる混乱という当時の社会情勢を背景に、「鍛えられた体の背筋をピンと伸ばし、寡黙であり、不条理な仕打ちに耐え、言い訳をせずに筋を通し、ついには復讐を果たす」という高倉演じる主人公は、サラリーマンや学生運動に身を投じる学生を含め、当時の男性に熱狂的な支持を集め、オールナイト興行にまでファンが溢れ、立ち見が出たほどであった。他のスターとは一線を画した印象を示したことが、大ヒットシリーズ連発の一因であったが[33]、本人は年間10本以上にも及ぶ当時のハードな制作スケジュール、毎回繰り返される同じようなストーリー展開、という中で心身ともに疲弊し、気持ちが入らず不本意な芝居も多かったという。そうした中で、何度か自ら映画館に足を運んだ際、通路まで満員になった観客がスクリーンに向かって喝采し、映画が終わると主人公に自分を投影させて、人が変わったように出ていくさまを目の当たりにし、強い衝撃を受けたという。これについて「これ、何なのかな……と思ったことあるよ。わかりません、僕には。なんでこんなに熱狂するのかな、というのは。だからとっても(映画というのは)怖いメディアだよね。明らかに観終わった後は、人が違ってるもんね。」と、当時の様子を客観視し語っている[注釈 3]。当時の風貌は、劇画『ゴルゴ13』の主人公・デューク東郷のモデルにもなり、同作の実写映画版への出演は、原作者のさいとう・たかをたっての要望であったという。

60年代半ばの東映による任侠映画ワンパターン量産体勢は高倉を疲弊させ、結果的に気持ちが入らない不本意な演技が見られるようになった[42]。高倉がそれでも「定番」を演じ続けたのは、劇場で目の当たりにした観客の反応があったからである。


<参考> Wikipedia



弊社の配信するコンテンツ・動画等の整合性・信頼性に関しては万全を期しておりますが、
それにより生じた損害に対しては一切 の保証を負いかねます。
弊社が提供するコンテンツを無断で複製すると、著作権侵害となります。
Copyright (C) 2021, zeicompany. All rights reserved.
Free to Link
直線上に配置