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高倉健の映画



飢餓海峡
 
1965年(昭40)1月15日公開/東映東京/183分/
モノクロ/シネマスコープ
 
企画 岡田茂
辻野公晴
脚本 鈴木尚之  監督 内田吐夢
撮影 仲沢半次郎 音楽 冨田勲  美術 森幹男
原作-水上勉
出演-三國連太郎・左幸子・伴淳三郎・高倉健・加藤嘉・藤田進・風見章子・三井弘次・沢村貞子

日本映画の歴史に残る傑作。

昭和22年、北海道に接近する台風の中、岩内の大火と青函連絡船遭難の2つの事件を結びつけた、水上勉原作の映画化。
戦後の混乱の中で復員してきた三国と、困窮のため娼妓に落ちた左の、束の間の交情から10年の歳月を描く。

高倉健は、犯人三国を追い詰める主任刑事を演じているが、追求する怒声はどこか空虚で空回りしている。
この役を健さんに推したのは監督の内田らしいが、ミスキャストのように思える。

三国に対峙する役者は高倉くらいしかいなかったのかもしれないが、
観客はすでに三国側に付いているので、健さんのいじめ方が陰湿に思えてしまう。残念な役どころだった。

以下Wikiより転載

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製作経緯
クレジットにはないが、当時東映東京撮影所(以下、東撮)所長だった岡田茂(のち、同社社長)の企画。
東映京都撮影所(以下、京撮)で時代劇『大菩薩峠』や『宮本武蔵』のシリーズ作品を撮り続けていた内田に「東撮で現代劇を撮ってもらいたい」と切望したのが映画「飢餓海峡」の企画の発端であった。
当時東映は時代劇は京撮で、現代劇は東撮で撮影されていた。1961年9月、東撮所長に就任した岡田は当たる映画が一本もなかった同撮影所を“現代アクション路線”で復活させ、さらに『人生劇場 飛車角』『五番町夕霧楼』『王将』とヒット作を連打し、意気軒昂の岡田が東京オリンピックの行われる1964年に向けて、目玉作品として腐心の末決定したのが水上勉原作で当時単行本として出版されたばかりの『飢餓海峡』の映画化であった。企画推進に異常な熱意を燃やす岡田は内田を説得し、脚本に鈴木尚之を起用したが、大川社長から労組対策で再度京撮所長に戻れと命じられ、脚本の完成を見ずに、後事を辻野力弥に託し1964年2月京撮に転任した。このため岡田の名前はクレジットされていない。

東映社長・大川博(当時)はプログラムピクチャー二本立ての低予算主義をとっており、本作品は「金がかかりすぎる」という理由で一度東映に断られている。しかし内田の息子と阿部征司が、実際よりも安く済むように見せかけた予算表を提示して制作にこぎつけた。

脚本、撮影ともに難航、岡田の後、東撮所長として赴任した辻野力弥は、北海道、東北地方での長期に渡る地方ロケ、および「W106方式」(後述)による撮影の障害などを考慮した莫大な予算の編成、獲得に活躍したが半年後の1964年8月本社に転勤した。辻野の後は今田智憲が東撮所長に赴任と、期間中所長が三人も変わるという不安定さで、撮影所内が混乱し東撮も労使闘争を生んだ。今田は当時40歳、岡田と並び将来の東映を担うと当時評価されており、大川社長は、岡田と今田を東西の両撮影所所長に据えて、東映の新たな時代を築こうとしていた。

脚本
脚本の鈴木尚之は、1963年に全て岡田からの指示で『人生劇場 飛車角』(別人名義)『人生劇場 続飛車角』(相井抗名義)『武士道残酷物語』『宮本武蔵 二刀流開眼』『五番町夕霧楼』『おかしな奴』と6本の脚本を担当。
以降、岡田のプロデュース作品に起用され、脚本は全て岡田と話し合いを重ねて完成させた。これらのハードな仕事をこなした信頼から岡田に本作の脚本に抜擢され、代表作とした。鈴木はこの後、巨匠たちから脚本指名を受けるようになり、「巨匠キラー」と呼ばれるようになった。「巨匠キラー 鈴木尚之」を作り出したのは岡田だった。

キャスティング
ヒロイン・杉戸八重役には岡田が佐久間良子を推し、内田も了解した。しかし、岡田が京撮に戻ると内田が左幸子に変更した。岡田は三國連太郎を嫌っていたため、三國の主役なら撮らせたくないと内田に伝えたが、内田が「これは三國以外にやれる人間はいないから、三國でなければ俺が降りる」と押し切った。また、高倉健の起用も内田の意向という。

撮影
ロケは東京、下北半島、北海道、舞鶴の各地で行われた。映画の撮影にあたり内田は、現代の日本人全体がおかれている"飢餓"の状況を描くためには、従来の方法でダメだと思い、流麗な画面ではなく、苦渋に充ちた画面を求め、16ミリで撮影されたモノクロフィルムを35ミリにブロー・アップさせた「W106方式」を開発した。この方式によりザラザラとした質感や、現像処理で動く銅版画のような画調をもたらす「ソラリゼーション」など、当時の小型映画によく見られた実験的手法を積極的に導入して、映像はそれまでの日本映画のウェット感とは一線を画した渇いた硬質の印象をもたらした。夏秋冬と3シーズンをかけ撮影が終了したのが1964年12月初旬。当初、映画の公開は11月を予定していたが、封切は1965年1月に変更となった。

逸話
東京から遠いロケ地へ芸能記者が内田にコメントを取りに行き、内田に「この映画のテーマは何でしょう?」と質問したら、内田が天を指差し一言、「空だ」といった。

カット事件
完成時の本作は192分1秒に及び、あまりにも長いため、所長の今田はフィルムカットを決定した。しかし内田は聞き入れず、助監督だった太田浩児が今田の意向に沿ってカットを行った。内田は「短縮版を封切るなら『監督・内田吐夢』の文字を外せ」と強く反発、「カット事件」として大騒ぎになった。内田と今田は親子ほど年が離れており、また今田は長く営業畑にいて映画制作の現場は初めてということもあって話がこじれた。スポーツ紙は競って連日、大見出しで事件を報道し映画界も騒然となった。京撮に戻っていた岡田が内田と電話で話し、「大川社長と二人で話してくれ」と段取りをつけ、大川と内田の二者面談での歩みよりにより183分の修復版を作ることが決定した。この二人の歩みよりは、折衷案だという。岡田は著書で「直営館では183分の修復版、その他の契約館では167分の短縮版を上映するという条件を内田に私が飲ませた」と書いている。フィルムをカットした太田は著書で「所詮偉い人には頭を下げる内田に怒りを感じた」と述べている。

封切り
一本立興行と記述されることが多いが、正しくは五大都市のみ本作の一本立特別興行。その他の劇場は『あの雲に歌おう』(主演・本間千代子、監督・太田浩児)との二本立て。

初公開版は167分に短縮され、完全版(修復版)を上映したのはごく一部のわずか4館のみだった。

その後、このことが原因となって内田監督は東映を退社した。大川博の没後には完全版が再公開されており、1975年に大阪で183分完全版が先に公開され、1975年10月18日から東京丸の内東映で完全版が単館公開された(他の劇場は『極道社長』『東京ふんどし芸者』)[24][25]。その後、札幌と福岡でも公開されている。現在ソフト化されているのも完全版である。完成時のオリジナル版は2018年11月時点で見つかっていない。

興行成績
東映の社史には「本作は興行的にも大ヒットし、作品的にも高い評価を受けた」と書かれているが、公開終了直後に他社の幹部の座談会で以下のやりとりがある。森栄晃 (東宝文芸部長)「『飢餓海峡』も写真はよかったけれども、あまりパッとしませんでしたね」 池内弘(日活撮影所企画部長)「冷飯ですかね」 橋本正次(松竹映画製作本部第一企画室長)「冷飯とはちょっと違うけれども、小さいですよね」 森「へんな話だけれども『飢餓海峡』を東宝でやっていればお客さんが来たと思います。それをヤクザとエロを毎日やっている東映がポカッとやったから、東映のお客さんが戸惑っちゃったと思いますね」。

後日談
「カット事件」と莫大な予算超過の問題で、岡田以下幹部が大川社長から始末書の提出、減給処分を受けた。各人が書いた始末書の全文は一字の違いもなく、撮影所の掲示板に張り出され、見学者が後を絶たない程の酷い辱めを受けた。

受賞
第20回 毎日映画コンクール(1965年)
監督賞:内田吐夢
脚本賞:鈴木尚之
男優主演賞:三國連太郎
女優主演賞:左幸子
男優助演賞:伴淳三郎

第11回 ホワイトブロンズ賞(1965年)
主演男優賞:三國連太郎

第16回 ブルーリボン賞(1965年)
脚本賞:鈴木尚之

第16回 芸術選奨(1966年)
内田吐夢

日本映画技術賞(日本映画技術協会:当時)第19回(1965年度)
特別賞(対象:東映化学と撮影グループ)

NHK映画賞
最優秀監督賞2位:内田吐夢

シナリオ作家協会
シナリオ賞:鈴木尚之

第5回 日本映画記者会賞
最優秀日本映画賞

第38回 キネマ旬報 日本映画ベスト・テン(1964年度)
第5位




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