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「山中貞雄」三作品

丹下左膳余話 百萬両の壺
 
1935年(昭10)6月15日公開/日活京都/92分
モノクロ/スタンダード
 
原作 林不忘 脚色
構成
三村伸太郎
山中貞雄
 監督 山中貞雄
撮影 安本淳 音楽 西梧郎  装置 島康平
Amazon Prime https://amzn.to/3PDaQuq
 出演-大河内傳次郎、喜代三、沢村国太郎、花井蘭子、深水藤子、宗春太郎、山本礼三郎、高勢実乗、鳥羽陽之助

もし死ぬ前、昏睡状態になる前に一本だけ好きな映画を見せてやると言われたら、多分この映画を選択するだろう。

天才と呼ばれた映画監督、山中貞雄の現存する三本の中の一本。

軽妙で至福感と慈愛に満ち溢れた映画である。
公開当時、大河内傳次郎が37歳、喜代三は32歳、長門裕之・津川雅彦の父親であり、弟が加東大介の沢村国太郎は30歳。
そして監督の山中貞雄は27歳だった。

脚本構成が素晴らしい。無駄な出演者やシークエンスが一箇所たりともない。全て必然として繋がっている。

監督デビューは3年前、24歳の時。
その1932年に6本、1933年に5本、1934年には3本、この年1935年には本作含めて6本の映画を監督。
寝て起きて脚本を書き撮影する日々だったろう。





この時、小津安二郎は6歳年上で前年に傑作「浮草物語」が公開されている。


以下Wikiより転載
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『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』は、1935年(昭和10年)公開の時代劇映画である。
日活京都撮影所が、山中貞雄を監督に、丹下左膳役に大河内傳次郎で製作した。11巻もの、同年6月15日封切。

2009年11月20日、キネマ旬報社が創刊90周年(1919年創刊)を記念して『日本映画・外国映画オールタイム・ベスト・テン』を発表したが、『丹下左膳余話 百萬両の壺』は日本映画部門の7位に選ばれた。

百万両の隠し場所が塗り込められた「こけ猿の壺」をめぐる丹下左膳と柳生一門との争奪戦に、左膳が居候をしている矢場の女主人櫛巻きお藤と孤児ちょび安とのエピソードを絡めたホームコメディ。

それまで丹下左膳の映画を撮っていた伊藤大輔監督が1934年(昭和9年)9月に日活を退社したため、三部作の予定だったトーキー版『丹下左膳』の最終作「尺取横町の巻」が宙に浮いてしまった。そこで急きょ山中に作らせることになったという。

山中は伊藤作品の丹下左膳をパロディ化したスティーヴン・ ロバーツ(英語版)監督のアメリカ映画『歓呼の涯(英語版)』(1932年)をベースにモダンな明るい作風を目指し、お藤役に歌手の喜代三を登用、屑屋役の高勢実乗、鳥羽陽之助コンビでコミカルさを加えるなど独自の演出を施すほか、伊藤作品における虚無的な左膳のイメージを廃して根っからの好人物に変え、大河内傳次郎の喜劇俳優の才能を見事に引きだしている。音楽もムソルグスキーの『禿山の一夜』などのクラシックを採用するなど洗練度を強めている。だが、「丹下左膳のイメージに合わない」と、原作者の林不忘側から抗議を受けている。

山中作品のうち現存する3作品の中で最も古いものであるが、残っているのは戦後公開版で、GHQによる検閲で終盤の剣戟の場面が削除された。削除されたこのシーンのフィルムプリントの20秒の断片は2004年に発見されたが、玩具用だったため音声トラックは無かった(おもちゃ映画ミュージアムが所蔵している)。

DVD化されており、セル・レンタル共にリリース中である。廉価版DVDも発売された。

2020年、日活と国際交流基金によるデジタル4K修復版が東京国際映画祭で公開された。この版では、可能な限り映像と音声を修復し、欠落していたコマを補完すると共に、GHQに削除された20秒の無音の剣戟シーンを国立映画アーカイブ提供のプリントに基づき修復したうえで挿入した。

2004年公開の映画『丹下左膳 百万両の壷』(監督 - 津田豊滋、主演 - 豊川悦司)は、本作のリメイクである。


河内山宗俊

1936年(昭11)4月30日公開/太秦発声映画/87分
モノクロ/スタンダード
 
原作 河竹黙阿弥
『天衣紛上野初花』
原案
脚本
山中貞雄
三村伸太郎
 監督 山中貞雄
撮影 町井春美
音楽 西梧郎  製作 大澤善夫
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 出演-河原崎長一郎、中村翫右衛門、原節子、山岸しづ江、清川荘司、市川莚司(加東大介)、高勢実乗、鳥羽陽之助

前年1935年6月に公開された「丹下左膳 百萬両の壺」以降、山中貞雄は「街の入墨者」(1935)、「怪盗白頭巾 前後編」(1935/36)を監督。その他共同監督や応援監督として稲垣浩監督作品の二本に関わり、そしてこの「河内山宗俊」となる。

主人公河内山宗俊を演ずる河原崎長一郎と、その酒飲み友達の中村翫右衛門が、当時15歳の甘酒売り、原節子の人身売買を阻止するために命を落としていく、悲劇である。

1936年、この年は戦争の足音が忍び寄って来ていた時代。映画公開の二ヶ月前には二.二六事件が発生している。そんな世相の反映か「河内山宗俊」はとても暗い内容の映画となっている。それでも「百萬両の壺」に出ていた屑屋の二人組が、今回は家老役で笑わせたり、河原崎と中村の泥酔演技などユーモアもたっぷりと入っている。

この作品の特徴的な一つは、シーンが変わっても、据え置いたカメラ位置が固定されている事。
特に河内山宗俊の自宅のシーンは、ほぼ毎回同じロングカットから始まっている。
正面に引き戸の玄関、左に二階に登っていく階段、右側に一杯飲みの座席と椅子、手前奥側に居間の構図。引き戸の上の棚には、商売繁盛の猫の置物が大から小へと何個も置かれているのが印象的。

このカット内で、河内山が帰ってきて山岸しづ江演ずる女房が迎えたり、弟を探しに来た原節子が佇んだり、あるいは加東大介が一杯やっていたりする。
そのいろんな人物が立ち代わり入れ替わり出入りする場所が、ラストにはヤクザもの達が大勢で破壊を始め、置物は砕け散って、やがて戸が破られヤクザたちが画面を蹂躙して行く。

千客万来の入り口だった平和な情景が一瞬にして崩れ去っていく虚無感が漂う。これは常に同じ構図で据え置いていたカメラアングルがあったからこそ、表現として成立するものだ。

山中のこの手法はWikiによると以下に説明されている。

『山中は早撮りの監督であり、とくに「ナカ抜き(中抜き)」という演出方法で撮影の効率化を図ったことで知られる。
ナカ抜きは、あるシーンを撮る場合に、そのショット割りに従って順番通りに撮影していくのではなく、そのショット割りに同じカメラポジションのショットがいくつかあったとしたら、それらをまとめて先に撮ってしまい、そのあとに別のカメラポジションのショットを撮影するという方法のことであり、それによってカメラや照明を移動させる手間が省けた。
この方法は後のテレビ撮影などで常識的に用いられたが、1930年代当時はほとんど行われておらず、山中が採り入れてから普及し出すようになった。加藤泰監督によると、山中のナカ抜きはワンシーンの中だけでなく、そのセットでのシーンが数回あったとしたら、その全シーンの同じカメラポジションのショットを、たとえシーンが飛んでいようと、全部先に撮ってしまい、いったん据えたカメラをなるべく動かさないようにしたという。ナカ抜きだとシーンやショットを飛ばして撮影するため、俳優たちは自分の演技やセリフがどのシーンでどのようにつながるのか見当がつかず辟易したが、山中の頭の中にはショットを組み立てる計算が全部入っており、編集時に混乱せずにぴったりとショットを合わせることができたという。』

カメラ構図を動かさないのは、照明などの作業時間短縮の必要からだったようだ。
ただ完成した映画を見れば、同一画面の構図を繰り返す事によって印象付けられ情景が、事象の変化に寄ってダイナミックに変貌していく様が描かれている。
早撮りの名人と言われた渡辺邦男監督の手法とは根本的に異なり、早撮りを逆手にとって映画的表現に昇華させているのが山中貞雄の凄いところだ。


以下Wikiより転載
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『河内山宗俊』(こうちやま そうしゅん)は、1936年に製作・公開された山中貞雄の映画作品である。

山中の監督作品のうち、ほぼ完全な形でフィルムが現存するのは本作のほか『丹下左膳余話 百萬両の壺』、『人情紙風船』の3本のみだが、本作は広太郎と三千歳のラブシーンと、森田屋が三千歳を呼ぶ場面の計5分が削除されている。
現存するのは原版からコピーされた16ミリフィルム版のみで、映像・音声が共に劣化した状態であった。
2020年、日活と国際交流基金による4Kデジタル復元版が東京国際映画祭で公開された。


人情紙風船

1937年(昭12)8月25日公開/P.C.L映画製作所/86分
モノクロ/スタンダード
 
原作 河竹黙阿弥
『梅雨小袖昔八丈』
脚本 三村伸太郎  監督 山中貞雄
撮影 三村明
音楽 太田忠  製作 武山政信
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 出演-河原崎長一郎、中村翫右衛門、中村鶴蔵、山岸しづ江、霧立のぼる、市川莚司(加東大介)、山崎進蔵(河野秋武)

前年1936年4月に公開された「河内山宗俊」以降、山中貞雄は「海鳴り街道」(1936)、「森の石松」(1937)を監督。そして前進座との提携作品の三本目となるこの「人情紙風船」を撮影。封切り当日に赤紙が届き中国に出征、翌年の1938年9月17日に河南省で戦病死した。

「河内山宗俊」と同じくこの映画もとても暗い。悲劇で救いがない。
内容については提携している前進座の意向があったのではないかと思う。
前進座は歌舞伎の門閥制度から独立を目指し松竹と袂を分かって1931年に設立された歌舞伎劇団。

この映画の主演、四代目河原崎長一郎が幹事長となり、集団住宅を東京・吉祥寺に建設。創造(稽古)と生活(住居と田畑・養鶏による自給自足)を統合した理想の場とした。その後、1949年には座員71名が日本共産党に集団入党、訪中公演も行っている。

この映画も「河内山宗俊」も、前進座の掲げるスローガンと同じく、貧しくも美しく暮らす市井の人々の誠意や勇気を描いている。
「河内山宗俊」は汚れを知らない少女を守るために、命を捧げていく男たちを描いていたが、
この「人情紙風船」はその悲劇性が詩的にまで高められているのが素晴らしい。

頭のタイトルバックとエンディングのみに音楽が流れるのみで、劇中には一切無い。
冷たい雨降りの情景から始まり、同じポジションで雨上がりの風景となり、物語が始まる。この呼吸が素晴らしい。

長屋での首吊りの顛末から住民の紹介、浪人の河原崎とその妻、やくざ者との諍いが絶えない髪結いの中村が描かれていく。
河原崎は旧知の家老に就職を頼むが、無視される日々が続く。中村は密かに賭場を開いてやくざ者たちに痛めつけられている。



以下Wikiより転載
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『人情紙風船』は、1937年(昭和12年)に公開された山中貞雄監督の日本映画。
日中戦争で戦病死した山中の遺作である。

略歴・概要
フィルムがまとまった形で現存する山中貞雄監督作品の3作のうちの一つ。
河竹黙阿弥作の歌舞伎『梅雨小袖昔八丈』(通称:『髪結新三』)を原作とし、山中の盟友である三村伸太郎がシナリオを執筆した。『街の入墨者』『河内山宗俊』に次いで前進座と三度目のコンビを組み、一座の花形である河原崎長十郎と中村翫右衛門が主演し、ほか多くの座員が出演した。また、当時前進座に所属していた加東大介が市川莚司名義で、河野秋武が山崎進蔵名義で出演している。

貧乏長屋に暮らす人々の日常と悲哀を描き、山中や稲垣浩らが参加した監督・脚本家集団「鳴滝組」が作っていった「髷をつけた現代劇」(「時代劇の小市民映画」とも)という、時代劇映画の一つのジャンルの中で最も傑作と言われる作品である。1937年度のキネマ旬報ベストテンで第7位にランクインした。

1937年(昭和12年)8月25日、封切り当日に山中に赤紙が届き、平安神宮で壮行会が行われ、神戸港から中国に出征した。山中は戦中、手記に「紙風船が遺作とはチト、サビシイ」と書き遺している。山中は1938年(昭和13年)9月17日に河南省で戦病死した。

1979年:「日本公開外国映画ベストテン(キネ旬戦後復刊800号記念)」(キネ旬発表)第4位
1989年:「日本映画史上ベストテン(キネ旬戦後復刊1000号記念)」(キネ旬発表)第13位
1989年:「大アンケートによる日本映画ベスト150」(文藝春秋発表)第10位
1995年:「オールタイムベストテン・日本映画編」(キネ旬発表)第4位
1999年:「映画人が選ぶオールタイムベスト100・日本映画編(キネ旬創刊80周年記念)」(キネ旬発表)第18位
2009年:「映画人が選ぶオールタイムベスト100・日本映画編(キネ旬創刊90周年記念)」(キネ旬発表)第23位

作品のパブリックドメイン化
公開年、監督没年のいずれを基点としても50年以上が経過しており、日本の著作権法(2013年現在)上ではパブリックドメイン化しており、日本国内では自由に複製、上映、改変、翻案などが可能となっている。




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