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小津安二郎の映画



和製喧嘩友達
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1929年(大正18)7月5日公開/83分(現存14分)
モノクロスタンダード無声/松竹蒲田
製作 - 脚本 野田高梧
 監督 小津安二郎
撮影 茂原英雄 編集 -
 美術 -
出演-渡辺篤・吉谷久雄・浪花友子・高松栄子・大国一郎・結城一朗・若葉信子
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1929年に公開された小津安二郎監督26歳の時のサイレント映画。
原版は77分だが14分の短縮版しか現存していない。

短縮版なので筋は通っている。
トラック運転手で東京している男二人が、運転中に娘を引っ掛けてしまう。
身寄りのない娘を自宅に連れてきて共同生活が始まる。当然娘に二人は心を寄せるが、娘は近所の美男子と結ばれる。

同時期の他の映画作家、J・フォードやA・ヒッチコックのサイレント映画と比べると、この小津の映画はカット割りが非常に細かい。
手元のアップやら食卓のアップ、二人の人間の切り返しのアップなど多数見ることができる。

後年に言われた小津調とはまったくの正反対。
さらにラストの別れのシーン。娘と美男子が乗る蒸気機関車を、やもめ男二人の運転するトラックが並走する。
このシーンの疾走感が素晴らしい。車内から身を乗り出す二人、横移動で捉えた走るトラック。機関車とトラックのロングカット・・・。
見事なモンタージュのラストシーンだった。

小津の61年作「小早川家の秋」に出演した森繁久彌は、カメラはフィックスでパンも移動カットもない小津のスタイルに
避難めいた言葉を残している。「あれで戦争映画が撮れますか?」
いや、小津は戦争映画を撮れるだけの力量は持っていた、しかし敢えてそのテクニックを捨て去り、厳格なローアングルのフィックス画面にこだわったのだと、この映画を見れば理解できる。

何の理由で小津は捨て去っていったのだろうか?
年代順に作品を見ていけば答えが出るのかもしれない・・・。


以下Wikiより転載
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生い立ち
1903年12月12日、東京市深川区亀住町4番地(現在の東京都江東区深川一丁目)に、父・寅之助と母・あさゑの5人兄妹の次男として生まれた。兄は2歳上の新一、妹は4歳下の登貴と8歳下の登久、弟は15歳下の信三である。生家の小津新七家は、伊勢松阪出身の伊勢商人である小津与右衛門家の分家にあたる。伊勢商人は江戸に店を出して成功を収めたが、小津与右衛門家も日本橋で海産物肥料問屋の「湯浅屋」を営んでいた。小津新七家はその支配人を代々務めており、五代目小津新七の子である寅之助も18歳で支配人に就いた。あさゑは津の名家の生まれで、のちに伊勢商人の中條家の養女となった。両親は典型的な厳父慈母で、小津は優しくて思いやりのある母を終生まで敬愛した。小津は3歳頃に脳膜炎にかかり、数日間高熱で意識不明の状態となったが、母が「私の命にかえても癒してみせます」と必死に看病したことで一命をとりとめた。

1909年、小津は深川区立明治小学校附属幼稚園に入園した。当時は子供を幼稚園に入れる家庭は珍しく、小津はとても裕福で教育熱心な家庭で育ったことがうかがえる[14]。翌1910年には深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学した。1913年3月、子供を田舎で教育した方がよいという父の教育方針と、当時住民に被害を及ぼしていた深川のセメント粉塵公害による環境悪化のため、一家は小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市)垣鼻785番地に移住した。父は湯浅屋支配人の仕事があるため、東京と松阪を往復する生活をした。同年4月、小津は松阪町立第二尋常小学校(現在の松阪市立第二小学校)4年生に転入した。5・6年時の担任によると、当時の小津は円満実直で成績が良く、暇があるとチャンバラごっこをしていたという。やがて小津は自宅近くの映画館「神楽座」で尾上松之助主演の作品を見たのがきっかけで、映画に病みつきとなった。

1916年、尋常小学校を卒業した小津は、三重県立第四中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎に入った。小津はますます映画に熱を上げ、家族にピクニックに行くと偽って名古屋まで映画を見に行ったこともあった。当時は連続活劇の女優パール・ホワイトのファンで、レックス・イングラムやペンリン・スタンロウズ(英語版)の監督作品を好むなど、アメリカ映画一辺倒だった[18][19]。とくに小津に感銘を与えたのがトーマス・H・インス監督の『シヴィリゼーション』(1917年)で、この作品で映画監督の存在を初めて認識し、監督を志すきっかけを作った。1920年、学校では男子生徒が下級生の美少年に手紙を送ったという「稚児事件」が発生し、小津もこれに関与したとして停学処分を受けた。さらに小津は舎監に睨まれていたため、停学と同時に寄宿舎を追放され、自宅から汽車通学することになった。小津は追放処分を決めた舎監を終生まで嫌悪し、戦後の同窓会でも彼と同席することを拒否した。しかし、自宅通学に変わったおかげで外出が自由になり、映画見物には好都合となった。この頃には校則を破ることが何度もあり、操行の成績は最低の評価しかもらえなくなったため、学友たちから卒業できないだろうと思われていた。

1921年3月、小津は何とか中学校を卒業することができ、両親の命令で兄の通う神戸高等商業学校を受験したが、合格する気はあまりなく、神戸や大阪で映画見物を楽しんだ。名古屋高等商業学校も受験したが、どちらとも不合格となり、浪人生活に突入した。それでも映画に没頭し、7月には知人らと映画研究会「エジプトクラブ」を設立し、憧れのパール・ホワイトなどのハリウッド俳優の住所を調べて手紙を送ったり、映画のプログラムを蒐集したりした。翌1922年に再び受験の時期が来ると、三重県師範学校を受験したが不合格となり、飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校に代用教員として赴任した。宮前村は松阪から約30キロの山奥にあり、小津は学校のすぐ近くに下宿したが、休みの日は映画を見に松阪へ帰っていたという。小津は5年生男子48人の組を受け持ち、児童に当時では珍しいローマ字を教えたり、教室で活劇の話をして喜ばせたりしていた。また、下宿で児童たちにマンドリンを弾き聞かせたり、下駄のまま児童を連れて標高1000メートル以上の局ヶ岳を登頂したりしたこともあった。




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