★ | 駄作 | 途中でやめたくなる |
★★ | 凡作 | 興味あれば |
★★★ | 普通 | それなりの出来 |
★★★★ | 佳作 | かなり面白い |
★★★★★ | 傑作 | 超オススメ |
1903年 (明治36年) 0歳 |
1903年12月12日、東京市深川区亀住町(現在の東京都江東区深川)に、父・寅之助と母・あさゑの5人兄妹の次男として生まれた。生家の小津新七家は、伊勢松阪出身の伊勢商人である小津与右衛門家の分家にあたる。伊勢商人は江戸に店を出して成功を収めたが、小津与右衛門家も日本橋で海産物肥料問屋の「湯浅屋」を営んでいた。 あさゑは津の名家の生まれで、のちに伊勢商人の中條家の養女となった。両親は典型的な厳父慈母で、小津は優しくて思いやりのある母を終生まで敬愛した。小津は3歳頃に脳膜炎にかかり、数日間高熱で意識不明の状態となったが、母が「私の命にかえても癒してみせます」と必死に看病したことで一命をとりとめた。 |
1913年 (大正2年) 10歳 |
1913年、一家は小津家の郷里である三重県松阪市に移住した。5・6年時の担任によると、当時の小津は円満実直で成績が良く、暇があるとチャンバラごっこをしていたという。やがて小津は自宅近くの映画館「神楽座」で尾上松之助主演の作品を見たのがきっかけで、映画に病みつきとなった。 1916年、尋常小学校を卒業した小津は三重県立宇治山田高に入学し、寄宿舎に入った。小津はますます映画に熱を上げ、家族にピクニックに行くと偽って名古屋まで映画を見に行ったこともあった。当時は連続活劇の女優パール・ホ ワイトのファンで、レックス・イングラムやペンリン・スタンロウズの監督作品を好むなど、アメリカ映画一辺倒だった。とくに小津に感銘を与えたのがトーマス・H・インス監督の『シヴィリゼーション』(1917年)で、この作品で映画監督の存在を初めて認識し、監督を志すきっかけを作った。 1920年、学校では男子生徒が下級生の美少年に手紙を送ったという「稚児事件」が発生し、小津もこれに関与したとして停学処分を受けた。さらに小津は舎監に睨まれていたため、停学と同時に寄宿舎を追放され、自宅から汽車通学することになった。小津は追放処分を決めた舎監を終生まで嫌悪し、戦後の同窓会でも彼と同席することを拒否した。しかし、自宅通学に変わったおかげで外出が自由になり、映画見物には好都合となった。この頃には校則を破ることが何度もあり、操行の成績は最低の評価しかもらえなくなったため、学友たちから卒業できないだろうと思われていた。 |
1923年 (大正12年) 20歳 |
1923年3月に小津は代用教員を辞めて上京、小津は映画会社への就職を希望したが父は反対した。しかし、母の異母弟の中條幸吉が松竹に土地を貸していたことから、その伝手で8月に松竹キネマ蒲田撮影所に入社した。小津は監督志望だったが、演出部に空きがなかったため、撮影部助手となった。 1924年3月に関東大震災で閉鎖されていた蒲田撮影所が再開すると、小津は酒井宏の撮影助手として牛原虚彦監督組についた。小津は重いカメラを担ぐ仕事にはげみ、ロケーション中に暇があると牛原に矢継ぎ早に質問をした。さらに小津は、演出部に入れてもらえるよう兄弟子の斎藤寅次郎監督に頼み込み、1926年に時代劇班の大久保忠素監督のサード助監督となった。 1927年のある日、撮影を終えて腹をすかした小津は、満員の社員食堂でカレーライスを注文したが、給仕が順番を飛ばして後から来た牛原虚彦のところにカレーを運んだため、これに激昂して給仕に殴りかかろうとした。 この騒動は撮影所内に知れ渡り、小津は撮影所長の城戸四郎に呼び出されたが、それが契機で脚本を提出するよう命じられた。小津は早速自作の時代劇『瓦版かちかち山』の脚本を提出し、作品は城戸に気に入られたが、内容が渋いため保留となった。 8月、小津は「監督ヲ命ズ 但シ時代劇部」の辞令により監督昇進を果たし、初監督作品の時代劇『懺悔の刃』の撮影を始めた。ところが撮影途中に予備役の演習召集を受けたため、撮り残したファーストシーンの撮影を兄弟子の斎藤寅次郎に託し、9月25日に三重県津市の歩兵第33連隊第7中隊に入隊した。10月に『懺悔の刃』が公開され、除隊した小津も映画館で鑑賞したが、後に「自分の作品のような気がしなかった」と述べている。 |
1929年 (昭和4年) 26歳 |
|
解説 | 「和製喧嘩友達」 (1929年7月5日公開・モノクロ無声・77分・現存17分) 脚本-野田高梧 出演-渡辺篤・吉谷久雄・浪花友子 |
1930年 (昭和5年) 27歳 |
|
解説 | 「朗かに歩め」★★★ (1930年3月1日公開・モノクロ無声・95分) 原作-清水宏/脚本-池田忠雄 出演-高田稔・川崎弘子・吉谷久雄・坂本武 |
解説 | 「落第はしたけれど」★★★ (1930年4月11日公開・モノクロ無声・77分) 原作-小津安二郎/脚本-伏見晃 出演-斎藤達雄・田中絹代・月田一郎・笠智衆 |
1931年 (昭和6年) 28歳 |
|
解説 | 「東京の合唱」★★★★ (1931年8月15日公開・モノクロ無声・91分) 原案-キタムラ小松/脚本-野田高梧 出演-岡田時彦・八雲恵美子・斎藤達雄 |
1932年 (昭和7年) 29歳 |
|
解説 | 「生れてはみたけれど」★★★★★ (1932年6月3日公開・モノクロ無声・90分) 原案-ゼェームス・槇/脚本-伏見晁 出演-斎藤達雄・吉川満子・突貫小僧 |
1933年 (昭和8年) 30歳 |
|
解説 | 「非常線の女」★★★ (1933年4月27日公開・モノクロ無声・100分) 原案-ゼェームス・槇/脚本-池田忠雄 出演-田中絹代・岡譲二・水久保澄子 |
解説 | 「出来ごころ」★★★ (1933年9月7日公開・モノクロ無声・100分) 原案-ゼェームス・槇/脚本-池田忠雄 出演-坂本武・伏見信子・大日方伝・飯田蝶子・突貫小僧 |
1934年 (昭和9年) 31歳 |
|
解説 | 「母を恋はずや」★★ (1934年5月11日公開・モノクロ無声・73分) 原案-小津安二郎/脚本-池田忠雄・野田高梧 出演-吉川満子・大日方伝・三井秀男・坂本武 |
解説 | 「浮草物語」★★★★★ (1934年11月22日公開・モノクロ無声・89分) 原案-小津安二郎/脚本-池田忠雄 出演-坂本武・八雲理恵子・三井秀男・飯田蝶子 |
1935年 (昭和10年) 32歳 |
|
1936年 (昭和11年) 33歳 |
|
解説 | 「一人息子」★★★★ (1936年9月15日公開・モノクロトーキー・83分) 原案-小津安二郎/脚本-池田忠雄・荒田正男 出演-飯田蝶子・日守新一・葉山正雄・坪内美子 |
1937年 (昭和12年) 34歳 |
|
解説 | 「淑女は何を忘れたか」★★★★ (1937年3月3日公開・モノクロトーキー・75分) 脚本-伏見晃・小津安二郎 出演-栗原すみ子・斎藤達雄・桑野通子・佐野周二 |
1938年 (昭和13年) 35歳 |
1937年7月に日中戦争が開始し、8月に親友の山中が応召、小津も『父ありき』脱稿直後の9月10日に召集、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊した。小津は毒ガス兵器を扱う上海派遣軍司令部直轄・野戦瓦斯第2中隊に配属され、9月27日に上海に上陸した。小津は第三小隊の班長となって各地を転戦し、南京陥落後の12月20日に安徽省滁県に入城。1938年1月12日、上海へ戦友の遺骨を届けるための出張の帰路、南京郊外の句容にいた山中を訪ね、30分程の短い再会の時を過ごした。4月に徐州会戦に参加し、6月には軍曹に昇進し、9月まで南京に駐留。同月に山中は戦病死し、訃報を知った小津は数日間無言になったという。 |
1939年 (昭和14年) 36歳 |
1939年3月には南昌作戦に加わり、修水の渡河作戦で毒ガスを使用した。続いて南昌進撃のため厳しい行軍をするが、小津は「山中の供養だ」と思って歩いた。やがて南昌陥落で作戦は中止し、6月26日には九江で帰還命令が下り、7月13日に日本に帰国、7月16日に召集解除となった。 |
1940年 (昭和15年) 37歳 |
1939年12月、小津は帰還第1作として『彼氏南京へ行く』(後に『お茶漬の味』と改題)の脚本を執筆し、翌1940年に撮影準備を始めたが、内務省の事前検閲で全面改訂を申し渡され、出征前夜に夫婦でお茶漬けを食べるシーンが「赤飯を食べるべきところなのに不真面目」と非難された。結局製作は中止となった。 |
1941年 (昭和16年) 38歳 |
|
解説 | 「戸田家の兄妹」★★★★★ (1941年3月1日公開・モノクロ・106分) 脚本-池田忠雄・小津安二郎 出演-佐分利信、高峰三枝子、葛城文子、斎藤達雄 |
1942年 (昭和17年) 39歳 |
|
解説 | 「父ありき」★★★ (1944年4月1日公開・モノクロ・94分) 脚本-池田忠雄・柳井隆雄・小津安二郎 出演-笠智衆、佐野周二、坂本武、水戸光子 |
弊社の配信するコンテンツ・動画等の整合性・信頼性に関しては万全を期しておりますが、 それにより生じた損害に対しては一切 の保証を負いかねます。 弊社が提供するコンテンツを無断で複製すると、著作権侵害となります。 |
Copyright (C) 2023, zeicompany. All rights reserved.
Free to Link
|